2022年は、ひとことで言えば、「人生で最も冴えない1年」でした。結構陰鬱とした内容になるかも。今年は働いているようで、ほとんどニートのようなものだったし、遊び回っているだけの年でした。しかし、後述の通り実は暇だからこそ自分の行動が狭まっていたりして、同じところをぐるぐる回っているだけだったのかもしれない。そこに気づく期間として必要だったのだろう。
特に努力もせず、与えられた環境にかまけて適当に生きてきたツケが回ってきたような気がしている。
タイトルにもあるように、これまで小手先(センスと雰囲気、錯覚資産)だけで生きてきた人生を変えないといけないと思っています。しかし、意志だけでこれまで慣れ親しんできた生活態度を変えるのは本当に難しい。来年がどうなるか、怖くも楽しみでもある。
詳細は後述しますが、自分に向き合い、生き方を変えるために必要な一年だったのだと思いたい。そこに気づいたことに大きな意味があると信じたい。
一方で、今年は興味のあることはいろいろと手を出した1年でもあった。テニスをめちゃくちゃやったり、ヨーロッパを2ヶ月周遊したり、アドレスホッパーをしたり。いろんな人に、いつまで模索してるんだと怒られそうなものだが、仕方ない。
さて、2019年から始めた1年の振り返り記事も、2020年のサボりを経て3回目の連載となりました。
当たり前ですが、2019年(24歳-25歳)からすでに3年も経ってしまっているようです。進んでいるようで後退しているように感じるこの数年ですが、今からゼロスタートという心境で生きようと思っています。
早速内容へ。今回はあまり元気がないので、シンプルに、短文で終わらせたい。(後述:無理でした)
注:極めて他責でネガティブな内容になっているため、注意して読んでください。あくまで自分の振り返りのために、ストレートな表現を使っています。
2021年から2022年にかけて
昨年は、以下の通り、自分は何がしたい人間なのか、どうすれば幸福感を感じることができるのかということを探求し続けた結果、俺には何もないと絶望し幻滅した1年だったようです。
じゃあ自分にとってそれって何かというと、犬と遊んで本を読むこと、たまに遊んでセックスすること、テニスすること。これくらいしかないんじゃないのか?
逆に言えば、燃えるような熱中はもうなくて、日常に感謝して生きるということなのか?~~~
ということで、今年はただエネルギーがしぼみ、他人と自分を否定して悲しくなった一年でした…しかし、こんなところでは終われない。
来年に乞うご期待。南無三!
http://shiko-shikou.com/life/27-birthday/
今年はどうだったかというと、そこをさらに内的世界に探求し、かつ時間とお金が多少あったので、実際に経験してみるということに時間を費やしました。多少でも興味のあることはやってみて、そこからの気づきを活かして自分の道を決めよう、ということを模索した1年となりました。その意味ではいい経験ができたのかもしれない。
乞うご期待などと言っているのが本当に恥ずかしい。今年は昨年以上に陰鬱とした1年でしたので、来年はもっと悪くなるのかもしれません。低空飛行で、期待値を下げて生きて行った方が良さそうだ。
2022年にやったこと・起きたこと
テニス
シンガポールで2019年秋から始めたテニスにハマり、唯一と言っていいくらいに楽しいと感じるテニスをやりまくった。後述のヨーロッパ周遊以外、ほぼ毎週2回はやっていたし、2021年から毎月出ている試合を今年もたくさん出た。浦安のインドアコートで超ビギナーの試合に出て、ついに2位トーナメントで優勝するまでになった。
一方で、10月ごろからテニスに熱中できなくなってしまった。何が起きたかと言えば、後述の通り転職活動にメンタルの大半を持っていかれ、テニスなんてしてる暇がなくなってしまい、やっていても楽しいと思えなくなってしまったのだと思う。10月以降は試合にも出ていないし、散々毎日一緒にテニスをしていたおばちゃんも疎遠になってしまった。つまり、現実に向き合わざるを得なくなったということだと思う。オートテニスに久々に行っても楽しくなくて、もう遊んでいられないんだなと思った。多分、また仕事をゴリゴリ始めたら、息抜きとしてやるのだろう。
一時期は本気でテニスコーチになるくらいしか楽しい人生はないのではと思ったくらいだが、そこまでのやる気はなかったのだと思う。テニス以外の欲求としては、海外旅行に行きたいことと犬を飼いたいこと(しかない)だが、犬を飼うと旅行にいけない(居場所が固定される)というジレンマがあるので、犬は後回しにしている。
アドレスホッパー
昨年は九州を周遊したり富山に行ったりしたのだが、地方の魚が異常にうまくて、日本全国を回ってみたいという思いが出たので、ADDressなるサービスを使ってアドレスホッパーをしてみた。結論としては、地方はいいなぁと思う一方で、ずっと一箇所に住みたいわけではないし、そもそもADDressのサービス自体がシェアハウスでいろんな人と話さないといけないので、めんどうくさくなってしまった。
多分、今流行りの二拠点生活が快適で、南房総や小田原茅ヶ崎や静岡などの関東近郊の郊外にベースを持ちつつ、都内でワンルームマンションでも持って好きな時に戻ってくるという生活が甘い理想なのだと思う。実家も都内にあるし、都内で狭いマンションを買うとか、狭小分譲住宅を買うみたいなことは、したくないと、今時点では思っている。(これも子供ができたら変わるんだろうし、現実を見ればそうなりそう。)
ヨーロッパ周遊
後述の通り転職活動に猶予をいただいたので、模索に時間を使うことができた。前々から行きたいと思っていたヨーロッパを、約2ヶ月、周遊してみることにした。結局行ったのは13カ国ぐらいだが、1カ国3~5日程度しかおれず、国を知るという意味では表層しかみれていないかもしれないが、大変刺激は受けた。
特にヨーロッパでは、個人主義が強く、日本とはいい意味で全く違う生き方を市民が送っていることを目の当たりにした。飛行機や電車はしばしばストライキで止まる。個人は会社と対等であり、会社が個人の自由を奪うことはできない。嫌だったら辞めてもいくらでも仕事が転がっているし、流動性が高いからこそ再学習の機会も多い。そもそも残業という概念がほぼないし、日曜には小売店がしまっているとか、20時に閉まるとか、とにかく生活者目線の日本に対して、労働者目線の国が多かった。本当は労働者=生活者なのだから、日本は生活者としての視点が厳しすぎるが故に、労働者としての自分の首を絞めているように感じた。
スイスであったシングルマザーの子から強烈に影響を受けた。彼女は極めて自立的で自分の頭で考えて生きている人だった。チューリヒの郊外に住み、家にはなるべく電化製品をおかず、なるべく自然食品を食べるナチュラリストだった。庭でbbqをして、休日はみんなで近所の湖で1日中チルをして、夕方にはバルコニーでベイパーを吸いながら人生について4時間以上話すというのを10日間くらい行い、精神的なエネルギーが補充される感覚を味わった。僕にとってはアメリカ留学時代のど田舎で感じた自然の中で人と遊ぶというのを再度体感する経験となり、やはり心地良さを感じた。
彼女が10月に日本に1週間きたのだが、本当につまらなそうだったのが印象的だ。なぜ日本人はみんな下を向いてるのか、なぜ誰も挨拶もしないし他愛のない会話をしないのか、アイドルやブランドを好きな人が多すぎて理解ができない、都市部はビルしかないし広告で目がチカチカする、カラフルなパッケージでコンビニの商品も全て人工的、プラスチックを使い過ぎている。などなど。僕は最初、めっちゃむかついた。せっかく日本を紹介してるのに、文句が多すぎるし、日本人は日本人なりに頑張って生きているのに、文脈や文化を無視した発言だと感じたからだ。
しかし、よく考えると彼女の発言も理解ができる。僕もヨーロッパやアメリカから帰ってきた時は、当初東京が極めて住みづらく、気持ち悪く感じたものだ。満員電車も、車の渋滞も、ビルばかりの街並みも、自然のなさも、全て気分が悪くなった。ヨーロッパが素晴らしいとは思わないが、都市部に生きていると、そうした人間本来の感覚、人工物や機械的な働き方への嫌悪感を忘れてしまうのだと思う。僕も基本的には彼女の感覚には賛成だ。一方で、僕自身もそうだが、彼女には日本の田舎のいい部分は見せることができなかったと思う。
僕はよく言えば、いろんな経験をさせてもらってきたという意味では視野が広い人間だと思うが、一方でどちらにも属していない、属せないという生きづらさを感じる。田舎も都会も住みづらい。エリートにも非エリートにもなれない。何かを捨てて一方を取ることができない。全部欲しいのだと思う。だけど、相応の努力をしない。これは今後の生き方を考える上で、大きなネックになってくると思う。要はリアリストでない。ただのわがままなのだと思う。
転職活動
今年一番大きなイベントは、転職活動だと思う。元々上場企業へ投資する投資会社にいたのだが、会社自体がクローズすることになり、転職する必要が出た。その際、考慮いただきあり、5月から10月まで、約半年の猶予をいただいたことで、ヨーロッパ周遊やテニス三昧などの模索という名の逃避行動に時間を使うことができた。
僕自身は、投資自体が自分の天職かはわからなかったし、3年以上やって、楽しかったのか、意味を感じれたのか、自分でもよくわからない。しかし、僕が投資会社で働いていたのは、今思えば、ただなるべく早くアガりたいからであり、その根本には、自信がないし社会でいろんな人と付き合うのが嫌だから、金で苦労していろんな人に揉まれる必要のある立場にいたくない、なるべくそこ(資本主義のラットレース)から早く逃げ出したい、という極めて消極的な欲求があったと思う。これは昔から金儲けを考えていたことも全く同じ理由と思う。ということで、少なくとも、主体的に仕事を楽しんでいたかというと全然そんなことはできなかったと思っているし、成果を上げるために自分なりに工夫をするというよりは、こなすような仕事の仕方をしていたと思う。
転職活動自体は、結構大変で、僕は1社目を半年で辞めているし、2社目も3~4年しかやっていないから、なんか外資の投資会社出身で錯覚資産はあるけど、実際お前何できんの?と言われると、正直何もできないので、自分でもあまり自信がなかった。結局、考えうる多くのエージェントや転職サイトに登録し、ヘッジファンドや投資顧問、ベンチャー、コンサル、事業会社など、いろんな紹介を受けたが、結局外資の事業会社と日系のコンサルに受かって、後者に行こうと思っている。
ヘッジファンドでゴリゴリ働いて他人に勝ち続けるという自信は全くなく、もう一度プロフェッショナルな戦略ファームで生き抜く自信もない。外資ITで飴と鞭を与えられながら持てるエネルギーの全てを根こそぎとられるというのが怖いので、友人が働いている日系コンサルに入れてもらったような形になる。こんな理由で働いて、頑張れるのかよくわからないが、とりあえずやってみないと何事もわからない。活躍して楽しくなるかもしれないし、また言い訳をしてやめる可能性もあるだろう。ただ、少なくとも1社目のように上司に罵倒され、パフォームしていないと人権がないような会社ではないため、僕でもなんとかやれるかも、、、しれない。毎年100万円くらいは拠出して投資は続けるつもりだし、この3年の投資についての学習は投資の考え方ももちろん会社や社会の見方という点でも自分にとって大きな意味があったと思う。
またコンサルに行くのかとか、ここで働いて5-10年後なにになってるんだろうなどと考えているとまた鬱々としてくるが、さてどうなるか、来年振り返る。四の五の言わずにやらないと生きていけない。
2022年の葛藤、気付き、学び
就活に疲れる
人生なんでもそうかもしれないが、目的意識がないと学びが薄くなると感じる。今回の転職活動もそれを強く感じた。僕はやりたいことなんて何もなくて、ただ社会から逃げたい、罵倒されずに生きていきたいだけなので、就活で聞かれる、「当社で何がしたいか、なぜ志望するのか」というのが、本当に嫌だった。第一志望で、受かったらいきますとか、嘘でしかないし、別に強烈な興味のある事業なんてない。(あったらもう自分でやってるかもしれない。)
結局、この会社でこれが学びたいとか、このスキルをつけてステップアップしたいとか、はたまたもっと単純でも、ここなら狙っている年収に到達できそうみたいな、目的意識があると、就活というのも大変楽しいものになるんだと思う。そのあたりは、やりたいことが見つかる前にタイムリミット(貯金とか市場価値)が近づいてきそうだったので、なくなく就活をしただけであり、これがどう転ぶかはよくわからない。もしかして2023年も結構やばい1年になるのでは?という危機感があるが、まぁやってみるしかない。やっている最中に目的意識やミッションが出てくるのかもしれないし、子供が産まれてガッツリ働くことになる可能性だってある。停滞した現状で陰鬱と暮らすよりは、多少なりとも前進し、できることが増え、選択肢も増えるということの方がまだ希望があるだろう。こんな後ろ向きの姿勢でいいのだろうかと思いつつ、流石に頑張りたい。
持つべきは友
僕は1:1で人と話すことが好きだ。4人以上になると、一人について詳しく聞くことができないし、こちらの話を一方的にすることもできないので、あまり好きではない。何を話していいのかもよくわからないし、大人数の時の自分は基本的に他人の話を聞いていないように思う。集中ができない。
一方、1:1で人と話すと、どんな人でも大体理解することができるし、分かり合いつながるような感覚がある。ほとんどの場合で元気がもらえる。だからもし誰かが困っていたり、相談したいと思っていたら、連絡して欲しい。
今回は転職にあたり、いろんな人から話を聞いた。話をして、聞いて、一緒に悩んで、元気が出たし、前に進むエネルギーももらえたことが多いように思う。相談できる友達がめちゃくちゃ多いということだけは、僕の唯一自慢できる点だと思う。誰かが悩んでいたら、少なくとも話は聞いてあげたい。(もう少し元気になったらねw)
日系コンサルを紹介してくれた中高同期とか、デベロパーで働いて転職した中高大同期とか、新卒からエストニアで働いている大学同期とか、石垣島でツアーガイドをやっていた高校の後輩とか、広告代理店をやめる中高同期とか、コンサル時代の先輩とか、イギリスに留学してる中高同期とか、投資会社から出資を受けて起業してる人とか、カナダの大学院で博士課程にいる中高大同期とか、インドネシアで30年前から起業してる人など、とにかくいろんな人に相談して、いろんな話を聞いた。本当にありがとうございます。
一方でこのブログを読んでくれていた人も多く、こちらからも小さくともなにがしかの影響は与えられていたみたいで、発信も大事だなと思った。
暇すぎると鬱になる、本も読めなくなってきた
以前の僕は、暇で時間があると人というのは無限に発散的に活動ができ、模索もできるものだと思っていたが、それはどうやら違うようだ。
少なくとも、収入もなく、スキルもつかないニートの状態では、焦燥感しか生まれず、行動力は下がり、生命力も下がるようだ。そうなると先述の通り、テニスのようなリフレッシュも楽しめないし、自己探求的なビジネス読書も、エンタメとしての小説読書も、はたまた受動的なアニメや映画すら、楽しめなくなってきた。いわゆる鬱的な状態になり、1日18時間寝るみたいな状態が続いた。
忙しい人は考える暇がないとよくいうが、それは悪い状態ではないのかもしれない。少なくとも、期間を決めて自己探求することはいいことかもしれないが、期間を決めずにいると、焦燥感に苛まれながら自己嫌悪と自信のなさを増長しながらダラダラ過ごすという、最悪な事態になってしまう。多分ひきこもりの人というのはこのバッドスパイラルにハマった人であり、僕は自分もその卵だと思っているから、気持ちはわかる。
たまたま僕には多少の世間体と責任感があったので、しゃーない働くかという思いが芽生えてきたが、本当に紙一重だったのではと思うし、これからいつ自分が心折れて引きこもりになるか、正直全くわからない。
この意味で、ある種抜け出せなくなるスパイラルに入るのが怖いという少し後ろ向きなエネルギーではあるが、働くっきゃないという思いを持たせてもらっている。少なくとも、暇で毎日何もすることがない、しかし将来に対し生産的なことを何もしていないという状態になると、僕の場合は、遠くに出ることもできなくなり、人と会うのも億劫になり、昼の15時まで寝て、近所のカフェで2時間くらいyoutubeを見て、疲れて、オナニーして、夜は漫画を読んで、朝の3時に寝て、死にたくなる日々を過ごすことがよくわかった。
という経験を経て、むしろ、忙しく活動的に動き、できることも知識も資金も増やしながら、少しの時間を使ってどう楽しむか、新しいことに挑戦するか、という生き方の方が、持続的な上にクリエイティブでエネルギーが出るのかもしれない、と思うようになった。ので、働く。
思考にはあまり意味がない
僕は昔から本が好きだし、今年も割と読んだと思うが、そのほとんどの内容は忘れているし、行動が変わった試しがほとんどない。特にビジネス本や自己啓発的な本は、目的意識のある人が読むべきもの(OOを上達したいので活用する、とか)であって、何もない人が読む物ではない。大きな抽象的な概念を考えて、よし、明日から意識が変わったぞと思っても、結局現実の壁にぶちあたれば、やっぱりやだ、となって元通りになる。その意味で、思考には多少の意味はあるが、自分を変えるほどの力はないのだと思う。
結局、本というのは初動を手助けする一手にはなれど、思考回路や行動パターン全体を変えるほどのパワーは到底ない。結局、自分の行動に対する現実からのフィードバックを受け、少しずつ自分の中での成功体験を積み上げ、だんだん中毒的に楽しくなっていく、あるいは多少辛くても少しずつできることが増えていくというような経験を積んでいかないと、人間は変わらないのだろう。最初は本当に小さなことから始めないと、すぐ弱虫の(引きこもりの)自分が出てきてしまうのだ。それでもなんとか生きていける時代だからこそ、である。
衝撃的な小説や、他人の人生の伝記などは比較的頭に残っていて、例えば今月でいえば、江副浩正の伝記やアゴタ・クリストフの「悪道日記」などは面白かった。自己啓発やビジネス本よりも、エネルギーをもらえて一歩踏み出せるような作品を鑑賞したいと思う。
家族を作るということ
しばらく付き合っている彼女がいるが、僕は甲斐性・胆力がないのでなにも決断をしようとは思えない。上述の通り、僕はなるべく社会から逃げたいという思いがめちゃくちゃ強いので、家族なぞ養える自信は全くない。自分一人なら、最悪バイトでも生きていけるが、子供ができて塾にでも行こうものなら、もう無理だ。住宅ローンを組んだら、いつ減価するかもわからない家に35年縛り付けられ、好きでもない仕事を続けることになるのだろう。そんな決断を僕にできるわけもなく、先延ばし先延ばしにして今日もダラダラと生きている。こうした場面で人が取る態度は2つであり、1つは、不安を解消するために努力すること。ハードワークして、めちゃくちゃ稼いで、金銭的な不安をなくすとか、地方に住んで生活費を下げ、生きていける土台を作ること。もう1つは、逃げ続けること。不安もあるし、課題もわかっているが、そもそも努力をしたくないし、社会に向き合いたくないので、何も努力せずにどこかにいいものないかなと青い鳥探しをし続け、静かに死んでいく姿勢である。今年の僕は明らかに後者であって、ジリ貧と思いつつ、マジでやる気がでない。
後述するが、逆に言えば、家族を作ることでエネルギーがもらえ、実は仕事も身が入りいろんなことが好転するという可能性はあると思う。住宅ローンを組んだことで、現実を肯定するしかなくなり、その中で色々な努力をすることで、人生が開けるということもあるのかもしれない。
しかし、子供を育てるということが目的になっている人生に、僕はなぜか嫌悪感がある(すごいことだと思うけど、やっぱりできない)。人生を楽しんで、好きなことでイキイキと生きている姿を、昔から周囲にあまり見たことがないからかもしれない。そんな状態で生まれてきた子供は、奴隷の再生産のようにつまらない人生を歩ませてしまうのではないかという怖さがあるし、保身のため(家族のためだが)に周囲を利用するような残念な中年もみてきた。それでも僕よりは100倍偉いけれど。
結局人生に正解はないし、家族や子供がいることが幸せなのかもよくわからない。ここは自分にとっては根源的な課題だと思う。人生をどういう姿勢で生きていきたいか、ということ。本当に、案ずるより産むが易し、ということなのかもしれないとも思う。このあたりも来年ちゃんと振り返ってみたい。
なんのエネルギーも出ない、要は満足している
上述の通りだが、今の僕には大したエネルギー源がない。ハングリーで、とにかく強くなりたいとか、とにかく稼ぎたいとか、この課題を解決したいみたいな人をみると、充実してていいなぁと思うのだが、どうやら僕にはエネルギーがないし、要は現在に満足しているということだと思う。彼女がいて、そこそこ綺麗な家に住んで、適当に毎日飯を食べて、適当なタイミングで旅行ができる。子供はまだ欲しくないし、結婚もまだしたくないし、資格も取りたくないし、人の役に立って嬉しいともあまり思わない(たったことがあまりないのかもしれない)。ダラダラといきたいのだと思う。
だから、高望みはしないし、自分への期待も下げて、少し適当に生きてみるべきかとも思う。全てが中途半端なのだと思うし、その状態を客観視しても、結局何もできないのだ。極限まで堕落する勇気もなければ、いっちょやってやるかという覚悟もない。本当に働かなくても生きていける時代になれば、何か創造的な行動をしたりするのかもしれないが、まだそうは言っていられない。今はハングリーと楽園(あるいはディストピア)の間の、微妙な時代なのだろう。しかし、最近の若者が宇宙人みたいに言われることがあるが、これが実態だと思う。逆に言えば、ガツガツした人にはとてもチャンスがあるとも思う。
逃げ続けて何も頑張ってこなかった人生、しかし、逃げると辛い
ここは少しプラスな気付きなのかもしれないが、これまでずっと、何かにつけ逃げ続けてきた人生だと思う。大学の勉強もつまらないと思いほとんどやっていなかったし、部活も全身全霊をかけてやれていたかというとそうでもない。新卒入社の会社はすぐにやめた。結局、大学受験以外に頑張ったことがないという、超悲しい人生だ。自分を騙し、人を騙し、騙し騙しで生きてきた。しかし、じゃあ頑張ろう、などと決意しても、できない。
逃げ続けると、年だけ食って、選択肢が狭まっていくような感覚になる。周囲の期待値も上がる(と思い込んでいる?)し、今から医学部に6年間いこうなどとは思えない(金も熱量もない)し、結局できることがほとんどないので、社会からさらに不要な人材となってしまう。自意識だけが肥大化し、周囲との実力の差も気になるし、社会からの評価も気になるが、自分を安売り(?)できない、本当に人生がスタックしかける寸前なのではと思う。
逃げるのは簡単だが、逃げ続けると、逃げれなくなる、ということなのだろうと思う。
決めるまで悩みは増え続ける パーキンソンの法則
上述の「思考にはあまり意味がない」に近い内容だが、とあるエントリーを読んでいて、まさにそうだと思うことがあった。結局、人間は必要に迫られてしか生きれないのだと思う。生きるのに死ぬほど働く必要がある時代は猛烈に働くし、どうしてもモテたい人はダイエットに成功するのだろう。先ほどの、現実からのフィードバックを受けないと意味がない、という話もそうだが、結局、何かを決めて、それにどうしても必要なことが出てきて、そのために仕方なく努力しているうちに、いろんなことが変わっていく、ということなのかもしれない。
パーキンソンの法則とは、例えばある仕事があったときに、制限時間を決められれば、その制限時間の中で課題は増え続ける、というような法則のことだ。瑣末な内容が気になりだしたり、無駄にミーティングをしたり、結局余裕があると無駄なことを考え出すのが人間というものなのだと思う。
だからこそ、思考を続けることは大事だが、それよりもっと、行動をすることが大事であり、決意するだけではなくて、強制力を持って決め事をして、マストで自分を縛らないと、自分を変えることはできないのだろう。
今、マストでやらないといけないことがあるならば、それを淡々とこなす必要がある。マストでやらないといけないことがない時は、やりたいことをやればよい。
モヤモヤした日が続いたならば、何かを現実の中で変える必要がある、と気づく時なのだと思う。
人生は何度繰り返しても大体同じ道になる 内田樹
救いでもあり、諦めでもある学びとして、今年読んだ内田樹の本(そのうちなんとかなるだろう)の中にこんな内容のことが書いてあった。
曰く、「僕の人生は、何度人生を過ごし、途中の意思決定や運や出会いに違いがあっても、結果として多少の違いはあれど、ほとんど今の自分のような生活に収束しているのではないかと思う。蔵書に並んでいる本も、何度人生を繰り返しても、1/3くらいは同じ本が並んでいるはずで、逆に言えば、残りの2/3は自分の本質とはあまり関係のない本なのかもしれない。」(意訳)と。
すごい達観だなと思ったと同時に、もしかしたらそうなのかもしれないと思った。結局人生は、その人の器に合ったサイズにしか落ちつかないということなのだろう。もしたまたま東大に受かっても、身の丈に合っていない人はそれを十分に活かした人生は送ることができないのだろうし、宝くじでたまたま3億円が当たっても、それをうまく使って人生を有意義にすることはできないのだろう。日々は自分の小さな意思決定の積み重ねであって、その根本の人間性が変わらない限り、どこかで予期せぬラッキーやアンラッキーがあっても、結局収束すべき場所に収束するのだと思う。
人生は一回なのだけれど、細かな意思決定は無数にあり、結果は大数の法則に近づくのかもしれないと、初めて思えたのが、衝撃だった。投資も一緒で、たまたまストップ高の銘柄を当てた人よりも、構造的に強い会社を見つける方法論を持ち1%を積み重ねることができる人が結局勝つのであって、世界中のヘッジファンドよりもバフェットが勝ち続けるのもそういうことだろう。仮想通貨やNFTで当てた人が転落するのも、一緒だろう。1円を大事にしない人は1円に泣く、というのも、これまた同じ教訓かもしれない。だから、たまたまの一発逆転はあっても、長い人生にとって、それは取るに足らないことなのかもしれない。
ニーチェの永劫回帰が同様の考えなのかはわからないが、これはかなり衝撃を受けたとともに、妙に納得した考え方だった。僕も、高望みはせずに、自然体でやることを淡々とやるしかなくて、結局自分の器に合った人生に終結するだけのかもしれないな、と、気負いを少しなくすことができたと思う。
これは諦めとも取れるし、能動的な態度とも取れる。イスラム的な思想で言えば、人生は全て生まれる前から決まっているのであり、何をしても仕方ないのだろうし、プロテスタント的な思想で言えば、人生は決まっているが、誰も真実は知らないので、せっかくだから頑張ってみようぜということになる。どちらを取るかによって、人生に向かう態度が変わるのだろうし、どちらが幸せかは、誰もわからない。
しかし、とどのつまり、人生において些末な差は関係なくて、置かれた場所・手札で楽しむことを放棄するのは勿体無い、と思った。
多少なりとも興味があること
僕は、人が人として生きることに興味がある。これまた極めて抽象的だが、もしかしたら今後の自分のヒントになるかもしれないと思い、記しておく。
昔から、海外の人たちの生活を見るのが好きで、海外に随分長く滞在していた。
今思えば、特に一般市民がどういうマインドでどう日々を暮らしているのかとか、スーパーでどんなものがいくらで売られているのかとか、それを支える社会制度がどうなっているのかを見に、海外に行っていたのだと思う。海外に行っても、物は買わないし、観光地に行ってもすぐ飽きるし、最近は首都にいくとつまらないということもわかってきた。
なぜ興味を持ったかと言えば、昔から日本の同調圧力や横並び主義に違和感があって、アメリカのど田舎に留学した時にすごくイキイキとできたからだと思う。日本以外の国では人がどう暮らしていて、それは本当に幸せなのか、日本では実現できないのかという思いがあったのだと思う。(なのになぜアメリカに住もうと思わないのかは、謎だな。大学もアメリカに行ってもよかったはずだが。)この意味で、スマートシティや都市計画のような文脈での調査ができる会社はいいなと思う。(これからいくコンサルでもチャンスがあるかもしれない。)
技術が進歩し、生活が便利になると、人は幸せになるのかということに興味がある。余暇が増えたらyoutubeやソシャゲに侵食され、結局デジタルに飼い慣らされるような人が増えたのではと思う。経済が進歩しているのに、労働時間が減っていないのはなぜだろう。ガルブレイスの広告の話ではないが、僕はほとんどの人間は自分が本当に欲しい物なんてわかっていないと思う。欲しいと思ったことが、実は自分を害しているものだということは、往々にして起こる。だからこそマーケティングがこれだけ大事な訳だし、飽食の時代にいまだに新製品が生まれるんだと思う。
都会にも田舎にも生きたいし、日本でも海外でも生きたいし、家族も作りたいし自由でもありたい。このわがままを、いつか実現できたらと思うが。
2023年をどう過ごすか
長くなりました。
2022年、27歳の1年は、過去に想像していたような華やかなものにはならなかった。むしろ陰鬱としており、冒頭の通り、過去最も冴えない1年になったと思う。しかし、読み直してみればそもそもの自分の人生に向かう態度が腐っていると思う。ネテロに「そりゃ悪手だろ、蟻んコ」と言われそうなくらいには甘えたアダルトチルドレン的な態度。これを変えない限り、一生僕は陽の目を見ずに、本当はこんなはずじゃなかったと言いながら老いていく人間になるだろうと思う。その人生でもいいならそれでいいし、そうでないなら自分で変えないと。それは誰でもない、自分の選択だ。
とはいえこれからの1年は、あまり強い決意とか、大仰な目標とかは立てず、しかし現実とは向き合って、自分なりにその時々にできることをしていきながら、気づけば何かが変わっているような1年になるのではと思う。来年の振り返りは、ハイテンションになるかもしれないし、お通夜モードの可能性もあるが、また一年、人だけは大切に、健康に生きていこうと思う。
(後述)
この記事を振り返っていて、僕には負け癖がついているように感じた。人生に消極的な態度を示したり、なにかと(ロジカルな)言い訳をつけて逃げ腰の人が僕も含めて周りに結構いるが、彼らは決まって今目の前のことで成功を積んでいない。逆に言えば、多少意味や意義を感じていなくても、人に必要とされ、自分が肯定されるような成功体験を積んでいれば、人はそれを続けることができるのだと思う。僕は自分への期待ハードルが高いし、他人の目が異様に気になってしまう自意識過剰なので、自分には達成できない目標を掲げ、人を頼ることもできず、すぐに萎えてしまっているような気がする。その意味で、本当に初心者として、ゼロから一つずつ積み上げるんだという姿勢、どんなに小さくても、自分なりに工夫して、成功する経験、どんな些細なことでも、人に感謝されるようなことをしてみる、ということが、必要なのかもしれない。
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