一昨年始めた(2019|未来の自分に向けて1年を振り返る。 – 25歳誕生日の定点観測。)、誕生日に1年の振り返りをするシリーズですが、早速去年はサボりまして、2年ぶりのシリーズ更新となります。今回は学び気づきは多いながらも、まだまだ混迷ということで希望に満ち溢れた振り返りではないけれど、自分なりのahaが多い一年だったので長いですがぜひ読んでください。

来年読んだら恥ずかしい文章だろうなと思いつつ、あくまで個人の変遷を記録し、あわよくば近い課題感を持っている人への助力になればと思って書いています。かなり極論を書いているので、嫌悪感を感じた人はそっ閉じよろしくおねがいします。文句は受け付けません。( ・ิω・ิ)

追記:一通り書いた内容を読み直したところ、相当悲しい文章になってしまいました。無駄に長いので、自己責任でお読みくだされw

2021年起きたこと

1.日本への移住

居住地を移したので一応記録。

2018年の末からしばらくシンガポールで働いていましたが、今年東京にベースを戻しました。

コロナのお陰様で仕事もリモートでできる環境ができて、会社の理解もいただき(めちゃありがたい泣)ベースを移すことができました。

後述の通り彼女とのゴタゴタがあったり、シンガポールそろそろ狭いし飽きたなというのもあり、家賃が高すぎてムカつくというのもあり、シンガポールはたまに戻れればいいかなという感覚です。

僕は昔から渡り鳥でして、趣味は引っ越しと言ってもいいと思います。固定で住みたい場所というのはなく、東京生まれで田舎もないからか土地への愛着もなく、その時々に好きなところに行って、巣を張らずに飽きたら移動したいというのを繰り返しています。

高校時代にアメリカに行ったのも、大学時代にミャンマーに行ったのもそうで、今回もそんな感じで、そろそろ東京も飽きてきました。この点、周りの人(会社、家族、彼女ほか)にとても迷惑をかけていると思いますが、どうしても落ち着けません。

コロナで慌ただしいですが、感染対策はしつつ、せっかくなので日本各地にいる友人(九州、中国、北陸)にたくさん会いに行きました。

2.テニスを始めた

正確には昨年末ですが、テニスをはじめました。

これは自分にとってかなり衝撃なんですが、テニスって最高に楽しいです。最高のスポーツです。大学生があそこまで黒くなるまでやるのも理解できたし、「うちは飲みサーじゃなくてがちなんで」とかいう文句も3割くらいは本当かも知れないと思いました。

これまでやってきたスポーツは全部イヤイヤやっていて、楽しいと思ったことがほとんどないのですが、大人になって始めたからなのか、指導者もおらず自由にできたからなのか、ただただ気持ちよく楽しくできています。

特に目標もなく、ただ楽しく、ただ毎月ビギナー大会には出場するようにしていて、こんなスポーツの楽しみ方をしていいんだなというのを知りました。
(アメリカ時代のシーズンスポーツもそんな感じだったかも知れない。実際アメリカで少しテニスをやっていて、死ぬほど楽しい記憶があったので今回始めたのです。)

多摩川あたりで毎朝6-8時とかでコートを取って、テニスベアで知らない人を集めてシングルス大会を主催したりして、一緒に試合に出る知り合いも増えたり、いつの間にか気持ちのいいコミュニティを作っていました。こういう利害関係のないつながりっていいですよね。

明確な目標を持たないといけなかったり、罵倒されながら我慢してやるもんだというスポ根とは違う、体を動かす楽しみ、それに伴うコミュニケーションの楽しみを知りました。テニス感謝。

ちなみにテニスの実力ですが、初中級~中級の間くらいでして、中級者にはたまに勝つくらいです。はじめて1年にしてはまぁ上達が早い方だと思っていて、好きでやってると勝手にyoutubeとか見て学んでくよなぁ。サッカーやボクシングやってたときより明らかにモチベーションが高いよなぁと驚いています。

3.彼女の浮気

ここはそこそこハードな経験なのですが、彼女が浮気していたのがわかり、めちゃくちゃショックを受けました。

そもそも僕もめちゃくちゃ浮気してたし、今もしたいという気持ちがあるので、一方的に責めるのもおかしいんですが、めちゃくちゃキレたし罵倒しました。浮気相手も◯すレベルでブチギレましたね。ちなみに自分が浮気してることも伝えました。

僕の中で、自分は浮気したいけど相手にはしてほしくない、という明確なる矛盾があって、まぁそれも人間だよね、ということでここはうまく整理できていません。どうすればいいのよ。
ちなみに僕は浮気欲はまだまだあって、そもそも彼女彼氏って何なの?性欲ってなんなの?てか結婚ってなんなの?法律ってなんであるの?などといろんな思考が発散しています。(こういう話も彼女とは継続的にしています。)

ただ、自分の彼女だけは絶対に浮気しないと思ってたので、ショックだったし、この件で僕は初めて、他人にも感情があるんだ。ということに気づけました。それによって他人とのコミュニケーションも多少はマシになったかと思う点では、多少感謝しております。
ちなみに今はどんな人間もどこかに浮気欲はあるんじゃないかなと思ってるし、何らかの宗教とか思い込みとか慣習、抑圧によって抑えているだけじゃないかと。まぁ今後彼女や奥さんが浮気しても驚きません。(決めつけなので不快な思いをした方はごめんなさい。)

日本に帰ってきた直接の要因はここでして、これまで遠距離で好き勝手やってたし、ケアも全くしてこなかったので、ここで落ち着いてちゃんとお互い向き合おうね、ということで、いきなり同棲しました。別にまだ結婚したいとは思わないし、なぜか別れたいとも思わず(日々思い出してブチギレたりしてますが)、しばらくお試し期間を続けているという段階です。この関係性自体も奇妙なんですが、まぁそんなもんだよね。向き合おうと言いつつ別に自分は向き合えていないので、そこも2022年の大きな課題となるでしょう。

とはいえ、今の家もそろそろ飽きてきて(飽き性すぎてやばい)、大自然でサーフィンと釣りができる田舎に住みたいな〜とか、海外に住みたいな〜、でもそうなると彼女どうしようかな〜、とか、フラフラといろいろ考えています。かなり無責任ですが、自分の感情にどうしても逆らえません。

このあたりは怠惰の美徳 (中公文庫) 文庫 梅崎 春生なんかを読んで、もっと下がいると自分を納得させています。

4.九州一周

大したニュースではないんですが、10月に1ヶ月かけて九州を周遊しました。前述の通り、そろそろ東京も飽きてきたなぁと思い、理想の移住先探しでまずは九州を回りました。

福岡、糸島に始まり、熊本、阿蘇、高千穂、宮崎、鹿児島など。

何より感じたのは、やっぱり自然が好きだなぁという再認識と、田舎はマジで飯がうまいということ。

鹿児島で適当に入った居酒屋で食べた首折れサバが、富山で食ったサワラと同立で人生で一番うまい魚でした。鶏も生なのにめちゃくちゃうまい。ほんで酒も飲んで3000円。なんだこれと。前職時代に偉い人になじられながら奢られた5万円の寿司はまぁまずかった。いつまで東京で疲弊してんの?は一部真理だなと。

とはいえ田舎に住むと刺激もないしすぐ飽きそうだなぁと思っていて、とりあえず2022年は定住先は決めずにいろんな興味のある場所(国内だと三島、静岡、湘南、真鶴、下田あたり:サーフィンできそうだからw。海外だと東欧、北欧、南米あたり:行ったことないから)にたくさん行く年にしたいなぁと画策しています。

以上が今年メインで起きたこと。読んだ本や漫画、見た映画もまとめようかと思ったけど疲れたので、前半のファクト・感じたことはここまで。また何かにつけ記事にします。

当記事の本番はここからですよ。

気づき、葛藤、今後に向けて

さて、ここからがメインです。

2021年を一言で表せば、「実存への問いに気づいた1年」であります。生まれてはじめて哲学した1年と言ってもいいでしょう。簡単に言えば、鬱であり、厨二であり、生きてる意味あんの?な状態です。これまではなにか信じるものがあって、それを追求してれば幸せになれるっしょという狭い視野で生きていたわけですが、どうやらそんなに人生シンプルじゃないらしいぞと。そこからはもう地獄です。

ここに至るまでの経緯や時系列の葛藤、今後に向けてというところまで、ゆっくり読み進めていきながら、馬鹿だなぁとか、もっとシンプルに生きろよとか、色々感じることがあれば教えて下さい。

哲学なんて体系的に学んでないし、何一つ原著を読んでないので、全く構造理解はできていません。しかし自分にとって喫緊の、実感値のある問題からいろんな本や人の意見をつまみ食いしているので、先に進んでいる皆様に置かれましては、アドバイスをください。

最近イキイキしてないなーと思っていて、自分にとっての幸せを起点に、色々考えていました。

幸せの定義

みなさんにとっての、幸せの定義はなんでしょう。今幸せな人もいるでしょうし、今思えばあのとき幸せだったなぁという時期を思い出して(僕はこれです)定義を考えてみてもいいかも知れません。これからの明るい未来を考えてもいいでしょう。

僕が暫定で考えている幸せの定義とは、「没我の状態」のことであり、その条件は、「短期でも長期でも幸せになれると思える目標を追求していること」です。

なぜこのようなまどろっこしい言葉を使っているか。

没我の状態」とはなにかというと、自分が今幸せなのか不幸なのか、そんなことは考えなくてもいいくらい、没頭している状態のことです。そしてその究極は、自分にとってプラスかどうかとか、周りにどう思われるとかそんなことは関係なく、ただ没頭しているので他のことは考える必要もない(それも危険ですが)、という状態なのでしょう。もちろんその最中でも、些細な事件によって多少の上下はあるでしょうが、次の条件を満たしてさえいれば、大勢に影響なし、でしょう。(果たしてそんなことは可能なのか?)

短期でも長期でも」と言っているのは、多くの動物と我々を分ける、その人間の性によります。パスカルは「考えることこそ人間の原罪である」と言っていますが、人間は農耕社会をはじめて以降、計画の概念を持つことを余儀なくされました。これが人間の苦しみの根源でもあり、人間が人間たる所以でもあるのでしょう。

狩猟・採集時代の人間は、餌がなければありつけるまで移動し、定住しないことから保存や貯蔵の発明もできず、しばらく餌がなければ死んじまう、という弱い動物でした。一方農耕社会では、田んぼを耕して、冬に備え収穫物を貯蔵し、数百人で分業しながら村をつくりました。そこから財産が生まれ、階級が生まれ、占いが生まれ、宗教が生まれ、法律が生まれ、偏差値が生まれましたw。このあたりはサピエンス全史なんかを読めば書いてあるのかもしれませんが、僕は読めていません。

さて、人間というのはどうやら将来のことを考える生き物で、どんな人間もパブロフの犬みたいに条件反射だけで生きてるわけではないようだ。ここで短期でも長期でもといったのは、短期的な幸せだけを求めていくと、長期で幸せを得られないんじゃないかという不安が、その人の没我を邪魔するからです。ものすごく雑な例で言えば、お腹が空いて1円もない状態でセブンイレブンに行ったら、原始時代の人間ならおにぎりをパクって店員を殴って消えるでしょうが、今の人類でそれをできる人はほとんどいません。今度は警察にパクられて、残念な将来が見えるからです。

なので、その人にとって、それを行うことで、短期でも長期でも幸せだと思えるものを追求していなければ、不安で夜もねれないのです。

一方、「幸せになれると思える」というフレーズは、必ずしも万人にとっての真理でなければいけないというわけではなく、勘違いでもいいんだという意味合いを含んでいます。例えば大学受験をしていた17歳のころ、僕は幸せでした。今思えば多少残念な価値観ですが、東大に入れば人生通して幸せになれると本気で信じていて、完全に没我で毎日熱中して勉強していました。実際に入学しても、全く幸せにはなれませんでした。大学を出たあとは、世間でいいと言われている会社に入社できれば幸せになれると思い、2chの就活偏差値板をみて上から受けていきました。入社した結果、全く幸せにはなれませんでした。そしてその会社でパフォームし続け、役員クラスになった人間を見てみても、全然幸せそうに見えませんでした(逆に言えば、その不幸せを給与やイキリによって解消しているようにしか見えなかった)。この時点で僕は、競争を諦めました。

おいおい、どこまで行けば幸せになれるのよ。どこまで行っても、他人の定義した(いわゆる親が考える)成功というものでは、一生幸せになれないっぽいぞ、ということに、やっと気づきました。

大事なのは、それぞれの段階で、没我の状況が生じているという事実です。つまり、どれだけ勘違いであれ、そのときは幸せだと思っている、という点です。そして更に大事なのは、そのときに自分の視野で見えている範囲における幸せが、本当に長期持続するのかは自分にはわからない、ということです。

少なくとも僕にとって、社会の多くの人がいいなぁと羨むような学歴やキャリアは、あまり幸せには寄与しないんだろうなぁ、というのを実感値として持ったというのが、23歳、2018年までに感じていたことです。ではどうするか。まだまだ混迷は続きます。

自分にとっての真理はなにか

もう少し幸せの前提となる目標について考えます。あなたにとって、これだけは間違いなく幸せだと信じられる対象や状態ってなんでしょうか。

「希望の大学に合格すること。安定した職業につくこと。自分の能力に向いた仕事で活躍すること。理想の恋人を獲得すること。四十歳までに自分の家を建てること。外国語やパソコンをマスターすること。スポーツに熱中して国際的な大会に出場すること。芸能界にはいって有名になること。行政府や立法府で国の経営に参画(さんかく)すること。アルマーニのスーツをビシッと着こなすこと。介護や福祉の仕事について働はたらくこと。大金持ちになること。美容師の国家試験にパスすること。バイクを走らせること。幸せな家庭を築くこと。病気を克服して健康をとりもどすこと。運転免許をとること。そのほかいくらでもある。」

「人生の目的」 五木寛之

うーむ、この中にありましたか?個人的には、一見よさそうなこともありますが、本当の長期で考えると、幸せなんだろうか、と思うものが多い。少なくとも、このために自分の人生の時間をがっぷり使って達成したい、という目標はありません。そもそもこの目標自体が親と社会に作られた欲求なんじゃないかと。

例えば、子育てに命を注いでいた人が子育てが終わって一気に鬱になり、熟年離婚するとか。これって幸せなのかよくわからないですよね。時間限定で終わってしまう可能性のある幸せは長期では幸せではないかもしれない。そもそも結婚すること自体が本当に幸せなのかって、誰が決めたんだろうか。自分が今幸せだと思ってやっていることが、長期的にはネガティブな結果を生む可能性もあるということ?特に子育てのような、不可逆な選択をしたいと思えない。じゃあどうすればいいのよ?

ピュアな欲求とはなにか

この世に、ピュアに自分が求める欲求なんてものはあるのでしょうか。僕はほとんどの欲求が、他者によって作られていると思っています。これをJ・K・ガルブレイスというアメリカの経済学者が1958年に、「依存効果」なる概念で説明してくれています。

曰く、初期の資本主義経済においては、消費者に求められるものがその必要分量を生産されていたと。しかし生産手段が効率化され、人々が豊かになるにつれ、必要のないものを生産するようになった。これを売りつけなければ業績は上がっていかないぞ。では広告を使って他人の需要を作り上げ、そいつらに売ってやればいいんだと。これは拡大再生産を余儀なくされる資本主義の悲しき性であり、飽食の現代にとって当然の事態なわけです。

  • 本当に結婚したいのか?ゼクシィみて勘違いしてるだけじゃないの?
  • バレンタインデーってチョコあげないといけないの?MEIJIに騙されてない?
  • ジュエリーってつけないといけないの?Tiffanyに拝金してるんじゃないの?
  • 旅行って行かないといけないの?インスタ見て憧れちゃってるだけじゃないの?
  • エルメスのマークがついてなくても500万でバーキンを買うの?
  • 誰も価値のわからない未開の地でマイバッハに乗るの?

どうやら嗜好品への欲求は、すべからく他人によって作られた欲求みたいだぞ。あれ、となると一次・二次産業以外に存在価値ないんじゃね?みたいな人が、作農したり社会学を学んだりするのでしょうか。洗濯機が出てきて、主婦は本当に幸せになったのだろうか。AIが出てきて、労働者は本当に幸せになるのだろうか。このあたりは資本主義の限界みたいな話になるので、別の機会に。

特に広告モデルというのはすごい発明品で、テレビもyoutubeもニュースもすべて、無料で提供することができるわけです。このあたりはタダより高いものはないっちゅう話でよく言われることですが、企業の広告を間に流すことで無料コンテンツが成り立っているわけで、その広告費を最終的にペイしているのは、我々視聴者なわけです。いつの間にか男が化粧する時代になってきましたが、これって。。。?笑

芸能人の不倫報道しか放送しないバカなテレビ番組ばかり見ていると、どんどん自分が洗脳され、他人と比較し、欲しくもないものを買わされる、ということかと。だからこそ自分の頭で考えられない人は無料の情報を取ると危険だという話であって、同様に無料ポルノサイトを禁止しろという話も出てくるわけですね。
(こういう話を彼女にすると、めっちゃ嫌がられますし、自分でもそんなやつと一緒にいたくないなと思うわけで、自己肯定感が下がっていきます。)

じゃあもっとプリミティブな欲求、3大欲求はどうなるんだ、という話ですが、これはDNAに埋め込まれた自動拡散欲求といえないでしょうか。睡眠や食料が必要なのは生き延びるためであり、性欲は滅びゆく個体を再生産するためにあります。すなわち人という種自体が、とにかく長く存続することがはじめから組み込まれていると。あれ、これってコロナウイルスと一緒じゃん。勝手に増えていくことを運命づけられた悲しい生命体なのか?(人間が地球にはびこるウイルス、みたいな過激な発言ではありません。)

じゃあ人間ってなんで生きてんの、なんで生き続けないといけないの?と言われると、古来数千年、誰も答えられないわけです。どこまでが自分個人のピュアな欲求なんやねん、と言われると、何もないかもしれんなぁと思います。

みんなが欲しがっているものが、欲しいわ

上記の通り、これが欲しいと思うほとんどの理由は、他人が羨むからとか、モテるからとか、基本的には他者からの見え方によって作り出された人工的な欲求だと思います。周りを見て、同じにしたい、競争に勝たなければいけない。常に周りを見渡しキョロキョロしている、宮台真司のいうところの、コスパだけ考えて周りに迎合するクズの出来上がりです。

こういった人は、周りの100人がイエスといえばイエスなのです。飛行機で突っ込めと言われれば突っ込むしかないわけです。なぜなら、自分の意志なんてものはなくて、ただ周りを見渡して同じ人がいると安心するキョロ充だからです。では自分がその時代にいたら歯向かえたのかと言われれば怪しいわけで、やはり全体主義、右向け右はよろしくないと。

麻生某氏がおっしゃる、国民が政治に関心がないことは悪いことじゃない、というのは、本当に平和が長期持続されるならまだしも、現代においては「メディアでコントロールできるバカしかいない」という意味で、為政者にとって扱いやすい、という意味で言っているのであり、かなり危機感を持ったほうが良さそうですよね。

目が怖いっすね。

何も楽しめない受動的ニヒリズム

さて、ここまで読み進められた読者の皆様におかれましては、僕がかなり性格が悪いことよく理解できたと思いますが、しかしこのような思想はかなり悲しい状態を生みますので、そこも差し引いて哀れみを感じていただけると嬉しいわけです。相応の罰が下っているわけです。

A◯Bを見ても、うつろな目で踊っていてかわいそうだ、この中からまたパパ活女子とAV女優が生まれるんだろうなと思うわけで、デ◯ズニーに行っても、資本主義に包摂されたキョロ充の集まりで気持ち悪くなり、もうな〜んにも楽しくないわけです。

何も考えずに受験勉強して幸せになれると思っていたあの頃懐かしいわ、勢いで結婚しとけばエキサイティングだったかもしれないわ、などと考えても、何もできないのです。なぜならそれで長期的に幸せになると思っていないから。

欲しい物がなにもない。何も楽しくない。究極生きてる意味もなければ、死ぬのもめんどくさいから、生きてる。唯一絶対の価値もなく、目標もない中で、虚しくただ生きながらえている漂流物という自認は、かなり残念ですよね。

ここまでくると、自分にとっての幸せってなんだろう?と考えると、たまにバイトでもして図書館で本読んでれば幸せだなぁなどと考えるわけですが、それでも世間体は捨てきれず、極端な選択も取ることができないのです。

毎月のキャッシュフローをプラス(給料ー出費>0)にして、ちょびちょび遊びながら、なんとか生き長らえるだけの人生、これは終わってんなと。このあたりの思考はマジで鬱になります。

ニーチェは、キリスト教的な唯一絶対の価値観(一神教ですしね)がすでに世の中で成り立たなくなっている、結婚したからって幸せかはわからない、いい大学に行っても幸せかはわからない、生きながらえても地球温暖化で死滅する可能性すらある。高度成長期のように、誰もがこのまま成長を続ければ幸せだぜと勘違いできるような時代は終わると。それを表現し、「神は死んだ」と言ったわけです。

ワンピースのルフィってずっと幸せそうだよね、という投稿を誰かがしてるのをみて、なるほどと思いました。世は大海賊時代、ラフテルに残されたワンピースを見つければ幸せになれると誰もが信じている世界ですから。一方現代はどうでしょう。これだけ達成すればOKという基準は、何一つないと言っていいでしょう。シンプルに視野を狭める幸せというのは、持続すれば幸せだけれども、持続しない場合かなりの不幸を生むのでしょう。(巷ではマイルドヤンキー理論と呼ばれています)

ここに気づき(周りの人間は何もわかっていない!と怒り)、鬱になり、あぁ生きてる意味ないわ、死ぬのもめんどくさいわ。という人が、彼いわく、受動的ニヒリストなわけです。

ニーチェさんがすごいのはここからで、ただ受動的ニヒリズムを解明しただけでは何も嬉しくないわけで、絶望して終わりです(実際は彼は生前理解されずに発狂して死んでますが)。彼はそこから「権力への意志」なる概念で、あらゆる生物の持つ根本原理を説明しようとし、それを追求することで人生が開かれる、という論を展開します。コレ自体は今の僕にはあまり刺さらなかったので、ここでは飛ばしますw。詳しくは哲学に自信ニキを捕まえて聞いてください。
彼は永劫回帰や超人なる思想により、受動的ニヒリズムを乗り越えようとしたわけです。それが彼なりの「能動的ニヒリスト」(生きてる意味は究極無い。ではその上でどう生きるか。)です。

自分の枠組み・欲望を疑ってみる

さて、ここで自分がピュアに求めていると思っていた欲求や、こうでなければならないと思っている枠組みについて考えてみます。なぜなら、自分が求めているもの自体が他者によってコントロールされたり仕向けられたものなのだとしたら悲しいですし、将来その価値観自体が引っくり返されたときに、絶望するからです。そして、このような固定観念や囚われが、自分の生きづらさを生んだり選択肢を狭めている可能性すらあると思うからです。

(気分害する方いたらすみません、自分に対する思いなので他人を同じ軸で見ているわけではないです(もしかしたらみてるのかも))

しなければいけないと思っていること

  • 20代で結婚しないと一人前じゃない
  • 子供は複数人育てないといけない
  • 自分の頭で考えないといけない
  • 子供には自分と同じ以上の環境を与えないといけない
  • 法律は守らないといけない
  • 一生かけて成したいテーマ(ミッション)がないうちは結婚できない

できればよりよいと思っていること

  • 子供は産めば産むほどよい
  • 人より稼いだ方がいい
  • 彼女、奥さんは可愛い方がいい
  • なるべくモテた方がいい
  • 人と違った方がいい
  • 他人には勝った方が良い
  • 人には嫌われない方が良い
  • スポーツはできた方が良い
  • 家はでかい方がいい

今ある欲求

  • 犬を飼いたい(かわいいから)
  • 自然にたくさん触れたい(アメリカで死ぬほど楽しかった)
  • 行ったことないところをみてみたい(海外旅行がシンプルに好き)
  • 広い家に住みたい(狭いと気が滅入る)
  • 体を動かすのが好き(気持ちいい)
  • 人と繋がりたい(心地いい)
  • 仕事に没頭したい(熱中して生きたい)

あれ。これって、どれが本当に自分がピュアに求めていることで、どれが社会の要請によって作り上げられた固定観念なんだろう。この多くは自分のピュアな気持ちではない(社会に作られている割合が多い)とすると、自分はこれまで何のために努力をしていたんだろう。この中でどれは手放せるものなのか、どれが生きづらさにつながっているのか。

やってみて、体感値を持たないと、何もわからない、というのは真実ぽいなと。とはいえ不可逆なこと(子供を産むとか)は準備ができてからでないとしてはいけないのではないか、というのが自分の中にあります。

基本的には親や周りとの比較から生まれている価値観がほとんど(親が結婚した年齢は間違いなくアンカーになっているし、うざかった上司が30歳で稼いでる額は超えたいとかが明確にある)。となると、ピュアな自分の欲求(心と体から湧き出るもの)は結構少なそうだぞ。
え、自分は何を求めて生きているんだ!?!?

本当っぽい欲求とはなにか

犬飼いたい→だって可愛いじゃん。
自然の中で遊びたい→だって楽しいじゃん。

これ、本当っぽいよね。

金持ちになりたい→となりのあいつが稼いでいるから
20代で結婚したほうがいい→周りがしているから。

これ、偽物っぽいよね。

自分にとって真理っぽい欲求は、ロジックでは表せないものかもしれない。
なんか、あれ、好きなんだよね。ということ。

とはいえ、本物と偽物なんて白と黒には切り分けられないのかも知れない。グレーがたくさんあるのかもしれない。僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルーなのかもしれない。ヴァイオレットインディゴブラックアンドブルーなのかもしれない。

となると、CMをみて、これを売ろうとしてるやつにまんまとかかりたくないな、と思う事自体も、よくわからなくなってくる。他人によって作り出された欲求は、自分のものなのだろうか?あれ?ディズニーに行って楽しんでいる人は、自分の欲求なのかな?作られた欲求なのかな?

ここに来てはじめて、他人の欲求を否定すること自体がとても虚しいことというのがよくわかります。(しかし僕はルサンチマン(妬み嫉み)で否定しまくりですw)
となるとパパ活にムカつくのはなんだろう?コピーバンドにイラつくのはなんだろう?整形しないほうがいいと思ってるのはなんだろう?今からyoutuberは辞めたほうがいいんじゃない?って思うのはなんなんだろう。

いやいや、これ、全部ルサンチマンじゃないの!?!?と。テメェのことだけ考えてろ!ってことですか。(T_T)

誰になんと言われようと、これだけは好きだと思えること

旅行とか、買い物とか。どんだけ勘違いと言われようが、自分が心と体から求めている欲求を求めるということに尽きるなと。あまりに長期のことは考えず、短期・中期でこれは自分が心から求めていることだと思えることを追求し、徐々に長期でも不幸にならなそうなやり方、あり方をとる、ということしかないのかもしれない。

あまりに長期のことを考えすぎると、何もしないうちから鬱になって、なんもできない人になってしまう。
エネルギーが出る範囲で、可能性が広がる、他人に害を与えないと思える努力はする。
(こんなんでエネルギー出るのかな?w)

ここまで大量につらつらと書いてきて、結論がしょぼすぎるんですが、要は、他人の目なんて気にしないくらい、理由もいらないくらい好きなことをして生きてると幸せだよねと。自分のピュアな喜び、楽しみが短期 – 長期で持続し、かつ社会との接点をもち貢献している(少なくとも害を与えていない)と信じられる対象を見つけるしかない。
“勝ち負け”や”損得”というパラダイムを超えた自分なりの心からふつふつと湧いてくる真理を見つける。

じゃあ自分にとってそれって何かというと、犬と遊んで本を読むこと、たまに遊んでセックスすること、テニスすること。これくらいしかないんじゃないのか?
逆に言えば、燃えるような熱中はもうなくて、日常に感謝して生きるということなのか?

なんだか寂しい欲望のように思える。しかし乱世を過ごした過去の人々みんなが待ち望んでいたのが、この現代なのではないだろうか。

このような話をバブル以前の世代にしようものなら、うるせぇ、四の五の言わずに死ぬ気で働け、と言われそうなものだが、そんなあなたにはこう言いたい。「いや、お前全然幸せそうじゃねぇじゃん」と。
生まれてこの方飽食で、ハングリーモチベーションでは駆動されないさとり世代。落合信彦のような壮大なエネルギーはないんだもの、仕方ないじゃない。

ここまで来ると、「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損〃」てのが、随分身近に感じられてくるものです。

ということで、今年はただエネルギーがしぼみ、他人と自分を否定して悲しくなった一年でした…しかし、こんなところでは終われない。

来年に乞うご期待。南無三!