
こんにちは、しこです。
久々の更新になりますが、自分にとってはパラダイムシフトと言っていいような気づきがあったので、シェアさせてください。非常に興奮しております、はい。
タイトルの通り、今回のテーマは自分を愛すること、「自己愛」になりますが、スピリチュアル(私は素晴らしい!と毎日唱えるみたいな)というよりは、客観的な構造把握を意識して書いていきますので、ご興味ある方はアレルギーを起こさずに読んでいただけると嬉しいです。
自分にとっては大きな気づきになったわけですが、この考えがありとあらゆる人に通じるもの、という訳ではないと思いますし、全くもって強要するわけではありません。ただなんらかの参考になったら嬉しいです。
もし何かの気づきになったり思うことがあれば、ぜひコメントなりTwitterなりLINEなりで反応いただけると喜びます 🙂
気づき/きっかけ/これまでの価値観
きっかけは長期間の葛藤と、読書
過去の自己紹介記事の通り、僕は常に何かと戦い続けて生きてきたような人生でした。試合に勝って、受験で勝って、恋愛で勝って、論破して、就活で勝って(?)、、、なのに一向に幸福感を得ることがありません。いつまで戦い続けたら幸せになれるんだろう、という疑問をずっと持ちながらストラグルしているという状況が、ここ5-6年続いていたような気がします。
そんな僕が、もしかしたら、いろんな問題の根源は一つに集約されるのでは?そのキーワードは自己愛なのでは??と思うようになりました。
今回の気づきのきっかけは、まとめると、1.自分の人生に対する空虚感への葛藤と、2.上司に勧められて読んだ本からの気づき、です。
これまでずっと、いろんな戦いに勝ち抜き、たまに負けながら、そのプロセスにおいても何かを楽しむということができず、絶えずモヤモヤを感じながら生きてきました。これって誰と戦っていたんだろう?
人から見ればよくやってるよというときでも、自分としては満足ではありません。
自分で決めたことができない、毎回自分を責めている、満足できない、没頭していない、もっとできる、あいつはもっとやってる、というように、自分に厳しく、それにより、自分の人生の空虚感を強く感じながら生きてきた気がします。プロセスを楽しむことができない、ワクワクすることがない、ただ他人にすごいと思われたい、認めて欲しい。
その欲求が収まることはありませんでした。いつになったら幸せになれるんだろう?いつになったら満ち足りることができるんだろう?そんな人生を25年生きてきました。自分の人生を生きていないような感覚をずっと持っていました。
そんな葛藤の中で、いろんな人や本から学びを得ようとしました。今までの人生を振り返り、自分を突き動かしているエネルギーの源泉は何か、本当は自分は何がしたいんだろうか、そういった、ある種自分探しのようなことをずっとしていました。
そのプロセスの中で、上司に「愛するということ」という本を勧められ、これまでの自分の悩みや葛藤と直接的につながるような内容で、大きな気づきを得た気がしたのでした。
(ドカーンと打たれるような感覚というよりは、じわじわエモく染み渡っていくような感覚ですので、巷で言われる悟りとか解脱みたいなのとは違うんだと思います。)
瞑想、日記による大きな気付き
そんな気付きも、本を読んだらすぐ悟るというような簡単な変化ではありませんでした。記事の最後に記しますが、様々な関連書籍を読みながら、いろんな人に話を聞いてもらい、自分なりにいろんな試みをしてみました。
その中の2つが、瞑想と日記です。
瞑想の仕方や内容自体は、他のブログや本に詳しいと思うので省きますが、僕にとって瞑想とは、呼吸に意識を向け、無の状態を作ること。とはいえいろいろな思考が絡まって出てきて無になれないので、そうした思考を客観視することです。
瞑想をすることで、無心になるということの難しさ、絶えず思考が止まらずに走っていること、そして仕事中、タスクに取り組んでいる時ですら、100%それに集中している時間がないということに気づきました。(これは新鮮な気づきでした。)
その後に、日記をはじめました。ただ日記を書くのでは今までと一緒ですから、工夫が必要です。
瞑想により、自分の脳みそが絶えず思考を繰り返していること、それによって、自分の脳が疲弊していることを強く感じました。
普通に生きていたら、絶えず思考を繰り返し、自分を責めたり、もっとうまく、もっと、もっと、と思考してしまいますから、日記でもなるべく思考ではなく感情にフォーカスしました。
その日に何があってどうしたということではなく、自分はどう感じたか、ただそれだけを振り返ることにしました。
これは、日立の矢野和男さんの、生産性や幸福度があがる1日の振り返り方なども参考にしています。1分半の短いビデオですから、興味がある方は見てみてください。
(参考:【矢野和男】1日を振り返って良いことに目を向けると「ハピネス」や「生産性」が上がる – Youtube)
そして日記を書き始めて数日のある1日の振り返りで、大きな気付きがありました。その日の日記は、以下でした。
『日記 2020.7.25土
だらだらして後悔の残る一日
6時起きでビーチバレー、うまい朝飯食って、みんなでゲームして、昼過ぎまで昼寝
特になにもしてない』
しこ
あれだけ感情を記そうと思って始めた日記なのに、見事に感情がありません。実際に思い出しながら書いているのに、感情が湧いてこないのです。
バレーボールをしていても、楽しいとも辛いとも思ってない。ゲームしても、別に楽しいわけではない、さらにいえば、夜に結局何もしてない1日を振り返り、罪悪感だけ感じて締め括っているのです。
バレーボールは楽しいからやってるわけではなくて、運動の習慣に”役立つ”からやっていました。ゲームも惰性でやっています。
ここにきて初めて、自分は(少なくとも)ポジティブな感情を感じづらい、あるいはあるのに無視している、ということに気づきました。
自分はいつの間にか、感情価値を置き去りに生きているのではないかと思うようになりました。
ここでのキーワードは、”罪悪感”と”役立つ”です。
僕は自分が好きなこと、楽しいこと、やりたいことを探しているのに、実際には日々、効果や効率、役に立つことしか求めていなかったのです。
そして、今日もなんの役に立たない1日だった、何もしなかった、と罪悪感を胸に寝るという毎日を送っているのだと気づきました。
睡眠が浅いことが課題の一つだと思っていたのですが、思考によって脳が疲弊し、毎日罪悪感を胸に寝ていれば、そりゃそうだよな、と妙に納得したのでした。
何かと戦い続ける人生
思えば僕の人生は、常に何かと戦い続ける人生でした。受験に始まり、部活、ゲーム、就活、仕事、異性、全て他者比較で生きています。そこに自分の感情はありません。
その中で、誰もやっていないようなこともいくつかやっていますが、それすらも”他の誰もやっていない”という他者比較でやっているに過ぎないのでした。
思えば東京の中流家庭に生まれ、優秀で金持ちな友人に囲まれ、他者軸のエリート志向で生きていれば、当たり前の事かもしれませんが。
中高の部活を選ぶのも、なんとなくうまかったサッカーを選びました。大学は東大に行きました。部活は今から始めても一流になれそうなボクシングを選びました。就職も激務のコンサルに行きました。(カラオケに行っても好きな歌は歌わず、うまく歌える歌しか歌いませんw)
本当はスポーツの中ではテニスが一番楽しいと思っていますが、大学で新しく始めてもなんにもならない(効率、成果主義)と思い、始めませんでした。
サッカーが下手なのに楽しそうにプレイしている人を見て、下手なのに何が楽しいの?と本気で思っていました。(本当に悲しいやつです)
役に立つ、実力があるやつ以外はカス、この思考は、実は外に向けた思考のようで、一番は自分に跳ね返ってくる思考です。
成果が出ないうちは意味がない、楽しんではいけない、好きなことはできない。
そんな価値観で生きていると、まるでノウハウコレクター、スキルコレクターのようになり、そんな僕が言われて一番嬉しいのは、「しこ君はなんでもできるね」という言葉です。実に特徴のない褒め言葉でしょう。
何も楽しくない、常に苦しい
先述の通り、僕は基本的になんらかの成果を出すために生きていました。
例えばボウリング。楽しいと思ったことはほとんどない(あるいは意識していない)ですが、ハウスボールで200行ったらかっこいいよなと思ってずっと練習していました。
毎週バレーボールとボルダリングをやっていますが、これも楽しいからではなくて、体調管理になるからやっています。そこに感情は基本ありません。鍛錬です。
就職もそうです。ここに行ったらモテるかな、給与は良さそうだ、転職もしやすそうだ、それ以外何の価値基準もありません。
そこで何かをしたい、あるいは行為自体を楽しもう、そういった思考は一切ありませんし、実際に楽しかったとしても、感情が麻痺しており、楽しいと思えないのです。
何をしていてもポジティブな感情が出てこない、とても苦しい、全てが苦行で、これを頑張ればいつか楽になるはず、で人生を刻一刻と消費しているのでした。
いつ満たされるのか
基本的には、同質競争をしているうちは幸せになることはないでしょう。ある程度同質競争の上に行って、さらに上の人を見た上で、幸せそうな人がほとんどいませんでしたから、これは真理だと思います。
なぜなら一つの指標を基準にすれば、上には上がいるからです。日本一の金持ちを目指して柳井さんを超えても、ジェフベゾスには勝てません。宇宙一まで到達するまで苦行を続けるのでしょうか。
この方法では、99.999%の人は一生満たされず、一生幸せを感じることがないでしょう。仮に何かの分野で1位になっても、絶えず後続の突き上げに悩まされながら生きないといけません。
実際に、金持ちになろうと思って金持ちになることはできないのでしょう。ベゾスは社会に広く使われるサービスを作りたいと思ったからこそ、結果として金持ちになったのでしょう。
(ここではわかり易く金で表現しましたが、なんでも同じだと思います。メッシも世界一になりたくてサッカーをしているわけではないと思います。)
自分はこのまま一生幸せを感じないのだろうか?何にも没頭せずに人生を終えるのだろうか?この空虚感はいつ埋まるのだろうか?
こんなに頑張っているのに、努力しているのに、工夫しているのに、なんで幸せじゃないんだろうか?何のために働いている?何のために生きているんだろう?
そんな葛藤が、18-25まで7年間あったのでした。その正体が、やっとわかったような気がします。
成果主義の背後にあるもの、自らの囚われを知る
上述の通り、僕が効用や効率、結果を求めるのは、一言で言えば、成果主義であると言えると思います。
そしてその背景にあるのは、「自分は成果を出さないと他者に受け入れられない。ありのままの自分では価値がない。」という囚われです。
そしてさらに突き詰めると、これは「他者に認められないと自分の価値を感じることができない」という意味で、「自分がありのままの自分を認めていない」ということだと思います。
これは人によって様々な要因があると思いますが、大なり小なり誰でも持っている感情だと思います。
例えば幼少期、母親からの無償の愛をもらうことができず、役に立たないと価値がない、あるいは役に立つと褒められるという報酬体系を埋め込まれているなどが考えられるでしょう。
そして、この大なり小なり誰でも持っている、「自分は有能でないと人に受け入れられない」という囚われがブースターとなって、成果主義を突っ走っている人が世の中にとても多いと思います。
自分を突き動かしている原動力ってなんだろうか?褒められたいから?モテたいから?なぜモテる必要があるのだろう?そうした疑問をもう一度考えてみると、誰もがこの囚われにたどり着くのではないでしょうか。
必ずしもネガティブな面だけではない
囚われというタームはネガティブな響きを持ちますが、もちろんポジティブな面もあると思いますし、それを認めてあげる必要があると思います。
例えば自分の場合は、自己否定的な感情を原動力にすることで、勉強を頑張ったり、知識を付けたりして、少なくとも食いっぱぐれることはないかなという自信を持つことができるようになりました。
その意味で囚われとは、一定期間は原動力になりうるが、それだけで突き進むと長期的には幸せになりづらい、どこかでメンタルや体を壊すか、精神がバグるということなんだと思うようになりました。(実際にそういう人もいっぱい見てきました。何と戦ってるの?という戦いをずっとし続けているような人たちです。)
さて、僕は自らの囚われのおかげで、一定の社会的評価と自信を得ることはできました。この点については感謝してもいいでしょう。でも、そろそろそんな価値観も離す時期なのかもしれません。
左脳だけでなく、左脳と右脳のミックスで対処する必要がある
ここで少し話はそれますが、こうして自分に向き合っていく中で、つくづく思うことがあります。それは、左脳だけで対処しようとしないのが重要であるということです。
これは言い換えれば、多くの人が成長する上で身につけていく”論理的思考”能力ではなく、”システム思考”力で考えるということに近いと思います。
論理的に考えて、直接的な原因を見つけて、原因を潰しましょう、というのが前者の考え方だとすれば、あらゆる事象はつながっているので、システムで考え、間接的な要因を構造理解し、適切な対処をしましょう、というのが後者です。
今回の僕自身の囚われを例に考えてみます。
論理的思考では、なんだか毎日イキイキ生きることができないな、朝も眠い、自分は目の前の事が没頭できていないぞ。ライフハックを勉強して、仕事の効率をあげ、楽しむ方法を見つけよう!となります。
一方システム的思考では、イキイキ生きることができないのは、全体で考えると、その精神構造に原因がありそうだ。この原因はなぜ生じているんだろう?もっと深くまで自分の価値観を深堀りしてみよう!となります。
前者がバッチ処理的なのに対し、後者は根本的な原因を特定し、再発しないよう根治するという処理になります。この辺りは興味のある方はシステム思考についての本を読むと面白いかもしれません。
今回の瞑想や日記で自らの感情をメタ認知したように、いかに左脳と右脳の両方を使うか、というのは、あらゆる問題解決において有用な方法なんだと思うのでした。
意識と行動の変化
さて、ここからは、こうした自分の内面の精神構造に気づいた僕がどのような変化を感じたのかを少し書いていこうと思います。
自分に対するスタンスの変化
今までの僕は、何をやってもまだ上がある、もっとできると考え、また、自分がサボったり何かできなかったりするとすぐに責めたり、人から否定されたら自分の人間性が否定されたと思いさらに努力しようと思うようなメンタルモデルでした。
現在は、(必ずしも常にできているわけではないけれど、)もっと自分に優しくなる、自分の感情を優先する、ありのままの自分を認める、人格否定ではなく行為や発言を否定されていると認識する、というように変化していきました。
簡単にいえば、自分を許す、ありのままを認めるというスタンスです。べつにいいじゃん。という感覚。
自分探しをやめた、正確には、止まった
今までは、自分は何が好きなんだろう?何がしたい?何のために生まれてきた?と思って、目の前の仕事に没頭できないのは、自分が本当にやりたいことじゃないからだ、と思っていました。
でも、好きなことをしたい、自由に生きたいと言ってるのに、意思決定は全て「他者からどう見られるか」で選んでたわけです。そんなんで自由に生きれる、好きなことを探せるわけがありません。
結局、好きには勝てませんから、今まで以上に好きを大事に生きる、それをやっている自分が好き、その状態がただ楽しい、そういった感情を大事にして生きるようになりました。
仕事の中でも楽しいこと、楽しくないことがありますが、楽しくないことはなぜ楽しくないのか、どうすれば楽しくなるだろうか?と考え、相談することができるようになりました。自分を圧迫して、タスクだと思ってやることがなくなりました。
すべきからしたいへ
日常をとりまく色々なことが、「〜すべき」というShouldから、「〜したい」というWantに変化してきました。
この仕事はやりたいからやっているのだろうか?やるべきだからやろうと思っているのだろうか?少なくとも、それを考えるようになりました。
やりたくないけれどやる必要のある仕事は、上司や周りの人と相談して、どうすればやりたくなるかを考えるようになりました。(この点、僕は相当周りの人に恵まれています)
身の回りを「したい」で埋め尽くすと、夜も自己嫌悪や罪悪感に陥る必要もなく、ぐっすり眠ることができます。
ここ5年で一番気持ちよく朝起きることができるようになりました。
自分の人生を生きる感覚
これまでの自分の人生は、自分が選択しているようで、実は他人が選択しているようなもんだったと感じます。
それは、自分がどうしたいという感情は無視をして、他人にどう思われるか、他人にどう見られるか、で意思決定をしていたからです。
先述の通り、これは誰しもにある感情だと思います。親からのネグレクトも、大なり小なり誰にでもあります。自己否定の極みは拒食症や自傷になりますが、一見健常に見えても、自分を否定する、囚われに駆動されて活力的に過ごす、というのは誰にでもあることです。
自分は自分の人生を生きているのだろうか?親からの期待を反映しているだけじゃないだろうか?他人の期待に応えているだけではないだろうか?そこに気づくかどうかは、想像以上に難しいことなんだと思います。
少なくとも、人に言われて気づくようなことではありません。
自分を認めること/許すことは、自分に甘くなることではない
ここまで、自分を認めるとか、「〜したい」で埋め尽くすということを述べてきましたが、これは自分に甘くなるということとは少し違います。
甘くなるというのは、単に自分は何をしてもいいという状態でしょう。どれだけ堕落してもいいわけです。
一方で、自分を認めるという状態は、自分の感情を認め、自分がなりたい姿、ありたい生き様に正直になり、そこに向けて本心から(自己否定ではない健全なエネルギーを使って)努力するということだと思います。
自分を認めた上で、自分のなりたい姿を考え、「〜べき」ではなく、「〜たい」を原動力に進歩することなのだと思います。
そして、本来人間は成長欲求のある生き物だと思います(なぜかはうまく説明できない)から、自分を認める、自分に優しくなる、自分を愛することで、堕落するわけではないし、人に迷惑をかけるというわけではありません。
他者への寛容
さて、まだまだ発達過程の途上ではありますが、自分を認めるようになってから、他人に対する考え方も変わってきたように感じます。
自分に優しくなることで、自己否定をする必要がありませんから、心に余裕ができて、他者にも優しくなり、人を認めるようになってきたように感じます。
少なくとも、強制的に人を変えようとか、もっと努力しろよとか思うことはなくなりました。他者が敵ではなくなりました。これまで僕は、究極的には世の中の人全員が敵でしたから、これは大きな変化です。
例えば僕は、過去に彼女に本を読ませていました。それは当時の自分のメンタルモデルでは、読んだ方がいい、その方が彼女のためになる、ということでした。お節介な勉強ママみたいなことをしていました。
でもよく考えると、それはあるがままの彼女を愛していないということです。他者から見える彼女を変えたいという欲求だと思います。彼女が今の彼女自身を認めて愛しているのであれば、僕が口を出す余地なんてどこにもありませんね。
このメンタルモデルだと、この人はダメ、この人は努力が足りない、この人はえらい、みたいな判断がなくなるのだと思います。いろいろな人に対して、優しく接することができるのだと思います。(まだその境地には至りません)
ただ、少なくとも、この人を変えようとか、これが唯一の正解だという気持ちはほとんどなくなってきたような気がします。
他者とのコミュニケーションでの変化
これまでは、自分は他者からどう見えるのか?という他者目線で生きてきましたが、今は、自分がどうありたいか、を考えるようになりました。これにより、他者とのコミュニケーションが変容し、仕事のメール一つとってもやり方が変わるようになって、自分でもびっくりしています。
今までは、どう思われるか?ちゃんと評価されるか?という受動的な思想でしたが、今は、この人にどういう状態になって欲しいか、自分がこの人をどうポジティブな気持ちにさせてあげられるか、という能動的な思想に変わりました。
この状態だと、どんどんポジティブな改善できるのです。今までは、ある種投げやりに、こうしとけば最低限いいでしょ、という(手を抜いてはいないけど工夫をしない)状態でしたが、今は、こうしたらこう思ってくれるかな、というような工夫をするようになりました。
(この受動と能動の違いは、言葉にすると難しいですが、感覚としてはずいぶんと違うのです)
キーワードは「自己愛」
さて、ここまで長らく自分を認めることの重要性、囚われについて書いてきました。これは一言で言えば、「自分を愛すること」なのだと思います。(ここら辺は『愛するということ』に詳しいです)
そして僕はこの自己愛の欠如が、あらゆる欠乏の根源になっているのではと思うようになってきました。
人によく思われたいから整形する、金を稼ぐ、うまい飯をおごる、ナンパで数を競う、身を粉にして働く、おちゃらけたキャラクターを作る、過剰にダイエットをする、この全てが、自分がありのままの自分を認めることができないからなのではないでしょうか。
勿論整形やダイエットがいけないわけではありません。けれど、そのモチベーションの根源が「自分がこうありたい」という能動ではなく、「他者にこう思われたい」という受動である場合、いくら改善しても問題は解決はしないでしょう。なぜなら唯一コントロールのできる自分自身が自分を認めず、他者の気持ちをコントロールすることは不可能だからです。
アドラーは人間関係が全ての課題の根源と言っていますが、もしかしたらその前に、自分(の心と体)との関係性を考え直すのが、何らかの課題を抱えている(ほとんど全ての)方にとって有意義な方法論なのしれません。
適切な伴走者によるガイド
また、これまでの長期間(19-25歳の実に7年)にわたる葛藤と本との出会いで変わることができたように感じますが、実際はもっといろいろなことがあったのだと思います。
そんなに瞬間的なデジタルな変化ではなくて、徐々にいろんな萌芽を見せながら、また、色々な人に相談しながら、そして自分より意識が発達している先達からの適切なガイドを受けながら、徐々に変化していくことができたのだと思います(まだその途中だと感じます)。
自分は一人で生きていれば、誰ともコミュニケーションを取らずにずっと本を読んでゲームをしてトレードをして生きていたと思います。そんな中では適切な自己愛やそれによる他者への愛を育むことはできなかったことが自明でしょう。
当たり前のことですが、人は一人では生きていけません。これまでお世話になったものすごくたくさんの人の好意に支えられ、ここまで生きてこれたんだと本当に思うようになりましたし、自分もそれをペイフォワードしていきたいと思うのです。
終わりに
心なしか、世界が違って見えます。色の鮮やかさが違うような気がします。少なくとも何ともない街並みや電車の中の風景が、今までよりも色づいて見えるようになった気がします。
多分それは、自分の心や感情に対し、今までよりも敏感になったからではないかと思います。
とはいえ、こんな世界の変化みたいなことを言っていても、デイリーベースではコンディションが悪い日も当然あります。でも、そんな日も、いいじゃない。人間だもの、そう思えるようになったのが一番の収穫です。
成果がでなくても、いい。カッコ悪くても、いい。そう心から思えるようになり、他者に対しても同じだけの愛を捧げることができるようになった時、また大きな変化を感じるのだと思います。
今後もいろんな事象に対面し、揺れ戻しが起きることも覚悟しながら生きていきます。
ただ、一つだけ誓いたいのは、僕は「自分に優しく、人に優しく」生きたいということです。
参考図書
一部スピリチュアルに近い本もあるのであまり宣伝しませんが、参考になった本を以下に挙げますので、興味ある方は手に取ってみてください。
特に記事の内容に少しでも思うところがある人は、「愛するということ」はぜひ読んでみてください。そして感想を教えてください。 (上からおすすめ順)
- エーリッヒ・フロム「愛するということ」
- セネカ「人生の短さについて」
- フランクル「夜と霧」
- 加藤諦三「自分を許す心理学」
- イヴリン・リム「人生が変わる自分の愛し方」
- 日野原重明「いのちの使い方」
- チャディー・メン・タン「サーチ・インサイド・ヨアセルフ」
- 小学館「まんが野口英世」
- 水島広子「自己肯定感、持っていますか?」
- 山竹伸二「「認められたい」の心理学」
2020年8月1日 at 1:04 AM
人にどう思われるかをコントロールしたい(戦略的に)時のセルフブランディングについてはどう思われますか?
2020年8月2日 at 2:37 PM
コメントありがとうございます。(記念すべき初パピコですw)
Good/Badではないと思いますが、自分が成し遂げたい目的のために必要だと思った上での行動なら否定すべきものではないと思います。
ただ、人にどう思われるか、という起点自体が、見てくれを気にしている外発的なモチベーションなのだとしたら、あまり本質ではないように思います。(違うと思いますが)
また、そのセルフブランディングが回り回って他者に害している(例えばマルチの金持ちアピールとか。)可能性にも気を遣うと、簡単にセルフブランディングってできないですよね。